若者は何故熱狂するのか

ビートルズ全盛期のライブ映像を観る機会があった。当然の如くティーンエイジャーの女子が熱狂的に叫んでいた。

こういうことが起きるのはビートルズのライブに限ったことではない。又音楽にも限らないし女子特有のことでもない。

しかし、年齢としては、10代の男女に多く見られる現象であろう。

これは一体何なのか。何故彼ら彼女らははしかにでも罹ったかのように何かに熱狂し、そして醒めていくのか。

それは、その年代の男女は成長の過程にあり、より良いもの、より優れたもの、より利益の上がるものを得たいと思い、また自らがそうなれるようわけがわからないままに目指しているからだろう。

(10代より若い子どもは、まだ生きることに精一杯で先のことなどを考えられる余裕がない。また年配の者たちは社会や自分の出来ること、限界を知ってしまっているので未知の可能性に熱狂することはない)

これは正しいとか正しくないといった問題ではない。愚かであるとか賢明であるという問題でもないだろう。ただそうあるというだけのことである。

その若者のまだ行き場の定まらない熱意を商売にしてしまうことの是非はわからない。年端のいかない者たちの知識の無さにつけこんでいるとも言えるし、若者たちに熱狂できるものを提供している善なるものだとも言えるだろう。

どちらにしろ、誰が何をどう考え、どう認識しようと同じことは続いていく。

#ビートルズ #思春期

ペリー、ハリスと来たのにアメリカが幕末日本から忽然と消えた訳からつらつらと考えた事

日米和親条約1854年日米修好通商条約、1859年。
あれほど日本に門戸を開かせるのに熱心だったアメリカが、幕末の日本から忽然と姿を消すのは、1861年に始まる南北戦争を控えてそれどころではなくなったからでしょう。

変わって、イギリスとフランスが登場してくるわけですが、その一つのフランスの存在感が維新の後で無くなるのは、フランスが後押ししていた幕府側が薩長に負けたからだけではないでしょう。
戊辰戦争1868~1869。普仏戦争1870~1871。
これでプロイセンに惨敗したフランスは、やはり日本どころではなくなったのでしょう。(ついでですが、日本陸軍の仕様がフランス式からプロイセン式に変わったのも、ヨーロッパ最強といわれる陸軍が普仏戦争の結果、フランスからプロイセンに変わったからと聞きます)

わたしは昔、学校で歴史の勉強をするときに、歴史で大切なのは、その流れと因果関係を把握することであって、年号を覚えることなんて意味がない、と思っていました。
さらに言えば、年号などは知りたければ調べればいいだけだ、と。
だから、卒業して何十年も経ってから、年号を知っていれば当然気がついていたはずの、幕末の日本からアメリカが消えた理由に思い至ったりするのです。
年号を覚えていなかったので、歴史的流れを個別に考えてしまい、それぞれの関連性が全く思い浮かばなかったのです。

丸暗記などというのは、皆、いやなものです。やはり、テストで点数をとるためだけではなく、勉強するからには、する意味が知りたいですから。

丸暗記の代表は素読でしょう。

素読とは、論語などの漢文を、意味の説明も何にも無しに、ひたすらくり返し音読することです》

年号などの暗記ものは、その必要さを説明することもできますが、素読のそれを、相手が納得する形で説明するのはなかなかに大変そうです。

今は素読などというものは、生徒だけではなく、保護者も反対するだろうし、学校でやるのは到底無理なことでしょう。
確かに普通に考えたら無意味にも見えます。
しかしこれは、古人が経験からその有効さを知っていた教育法だったのでしょう。体に叩き込むということなのだと思います。わけもわからず、意味も説明されなくても、くり返して読めばなんとなく意味はわかってくるものです。

《但しこれは、読む文章がちゃんとしたものであることが前提です。リズムのない文章では苦痛なだけです》

しかし素読がもう流行らないのも仕方がないことです。素読の短所は現代では受け入れられ難いものなので。

先程、日本でいう、幕末から明治にかけての欧米の出来事に少し触れましたが、あらためて考えると、正に激動の時代です。争いに満ち溢れています。
しかもこれは、第二次世界大戦、さらには朝鮮戦争まで、ほとんど切れ目なく続くのですから。
その後、大きな戦争が起きていないのは何故か。
決して、人類の叡知のためなどではありません。

冷戦の間はよく言われていたことです。核戦争に発展するのが怖いからです。

ですから、広島、長崎の被曝は勿論、あってはならない、許してはいけないことでしたが、その尊い犠牲は、決して無駄なものではなかったのです。

原爆の投下がなく日本が敗戦していれば、おそらく朝鮮戦争で原爆は使われたでしょうし、そうなれば、使われる規模は遥かに大きかったはずです。
日本には、とどめとして使われ、しかももともと二発しか作られてなかったと聞きますが、朝鮮戦争で使われたならば、それは主力兵器としてでしょうから。(しかし原爆を見せられたあとで、よくソビエト金日成は戦争を仕掛けましたねぇ。それが使われないことに確信があったのでしょうか)

その後も核兵器が抑止力であり続けており、大戦争が起こっていないのも、広島と長崎の犠牲があったからこそなのです。

キャッシュレス決済における窃盗について

テレビでドコモ口座からの不正引出しの問題を説明していました。
一応の対策として、キャッシュレス決済を利用していない人でも、自分の銀行口座をまめに確認する、ということが言われていました。

それはそれでいいのですが、勿論、根本的な問題は、暗証番号がバレてしまっていることでしょう。

さらにいえば、以前は仮に暗証番号が洩れてしまっても、誰かがそれを利用してお金を奪うには、キャッシュカードという、モノを手にいれなければならなかったのが、ドコモ口座や、スマホ決済が開発されたことによって、キャッシュカードを手に入れなくても、他人の口座から金を奪いとることができるようになった、ということが要点です。

《他人の銀行口座であっても、暗証番号がわかれば、本人が知らないうちに勝手にドコモ口座を開いたり、スマホ決済の手続きをすることができるのでしょう。そうすれば、そこを通して、通帳やキャッシュカードといった、モノがなくても口座のお金をうばうことが出来るというのが問題の肝です》

そこに弱点があることを、犯罪者たちは鋭く感じとって、銀行口座預金者の暗証番号を解明することに資源を集中、精力を傾けてそれに成功したのでしょう。

私たちは、犯罪者というのは、悪い人として一括りにし、人としても下に見て、その能力も低いものだと考えがちです。

それは大いに間違っています。彼らの多くはプロフェッショナルであり、高い能力を持っているはずです。
加えてやる気もあり、働き方改革も適用されていません。
もしも、組織の一員であるならば、上からの圧力も大きいはずで、それも結果を出す要因でしょう。

一口に言うと、敵は極めて強力だということです。

そこを理解していないと、彼らに対抗することは、かなり難しいことになります。

堀江貴文氏と気の毒な餃子屋さんの問題で一つだけ申します

堀江貴文氏の行為については、個人批判になってしまうので触れません。

ここで言いたいことは、実際に当該餃子屋さんの営業を妨害している人たちに対してです。

その人たちは、堀江貴文氏の主張に賛同して、問題の行動を起こしたのだろうと思います。
そうであるからには、少なくとも、堀江貴文氏に対して悪い感情は持っていないのでしょう。

ところが、彼らに残念なお知らせがあります。

それは、堀江貴文氏は、あなたがたを軽蔑しているだろうということです。

他人のちょっとした扇動に乗っかって恥ずべき行為をする人たちに、誰が敬意を払うというのでしょう。

そうして、その思いは堀江貴文氏も同じだと思います。

(では何故、それを止めようとしないのか、ということは個人攻撃につながってしまうので、差し控えなければなりませんが)

何かを批判したい時にお金が絡むことだったらもう一度深く考えたほうがいい

中曽根元総理に対する、実質的な国葬が行われることが批判されているらしいです。

国葬が行われることの是非はともかく、これを批判する人たちの動機はわかります。

人間は、儲け話を断ることや、儲け損なったことに対しては冷静に対処することができます。

しかし、損をしそうな話や、実際に損をしてしまったことに対してはそうはいきません。
大変に興奮して、感情的になってしまいます。
既得権を守ろうとする本能的な反応なのでしょう。

中曽根元総理国葬に対する反応は、正にこれに当てはまります。
国葬ということは、税金が使われる。税金、つまりは自分たちのお金が使われる、ということに過剰に反応してしまうのです。

ですから、彼らの発言の根拠を聞いても、あまり意味はありません。
客観的に妥当性を考えて出した答えではないからです。
初めから反対する、という揺るぎない結論があった上で、その理論的根拠を探しただけだからです。
後付けだということですね。

というわけで、“何かを批判したい時にお金が絡むことだったらもう一度深く考えたほうがいい”です。

上で述べた感情の罠から逃れる方法があります。
それは、なるべく客観的になることです。
今回のようなことでしたら、これを外国のお話だと仮定して考えてみる、というのも有効な方法です。

例えばそうですね、自分がアメリカ人だとして、ロナルド=レーガンが亡くなられた時に、(実際はどうだったのかは知りませんが)アメリカの国費が葬儀に使われたとしても、それは批判されるべきものだとは思わないのではありませんか。

別に、国葬を推進する人たちの意見も聞いて、双方の言い分を吟味した上で判断する、というのも、勿論、本来は有効な手段です。
しかし、マスコミというものは、私たちの聞きたいことしか報道しません。
今の例での私たちの聞きたいことは、国葬に反対する意見ですので、国葬を推進する人たちの、もしかしたら聞いたらもっともだと思うような意見は報道してくれません。

保守系の新聞、雑誌にはあるかもしれませんが、それも冷静さに欠ける文章になってしまっているような気がします。あまり読む気がするようなものではなさそうです。(偏見です)

この事に限らず、私たちは自分を騙すのです。まず、自分が思いたい結論を決めてから、根拠を探すのです。その根拠を見つけてから、あたかも、先に根拠があって、そこから結論を導きだしたかのように思うのです。

今更ですが、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」

《あらすじなど、作品の説明はくだくだしくなるのでしません。ですから、既に読まれた人だけに向けた文になっていまいます》

叙情的で美しい少女、少年時代の描写と、残酷な真実が明かされた後、その少女、少年時代の一番鍵となっていて、希望でもあったエピソードが情け容赦なく、あっけなく切り捨てられる真相。

前提の設定が非現実的なので、どうしても無理があったりして、少し馬鹿馬鹿しく思えてくることもありますが、読後、残酷な運命を生きた彼女、彼らたちと、現実世界を生きている私たちとの間に、どれほどの違いがあるのだろう、と考えると、作者の意図が少しわかったような気がします。

読んでいない方でも、作者にとっては道具立てに過ぎない前半部でも(真相の衝撃を高めるために美しく描いているという意味です)カズオ・イシグロくらいになると、それだけでも読むに値するという、文章の力を実感できる作品なので、読んで損するということはないでしょう。
ついでながら、原文も割合にわかりやすいので、根気のある方でしたら、英語版をお勧めしたいです。

ノーベル賞、最優秀選手賞、アカデミー賞などは不毛なものだといいたいけれども

世の中に賞と呼ばれるものは沢山あります。
皆々それに一喜一憂しますが、賞というのは、根本的におかしなものです。

何がおかしいのかというと、結果は既に出ているのです。
プロスポーツであれば、個人の成績、プレーのインパクトや重要度など、全て終わったことで、関係者やファンは皆、知っていることです。
映画ならば、それも全て公開済みです。

それらをどう評価するのかは個々人がやるべきことです。
「俺にとってはこの選手が今年一番だった」
「私のお気に入りはこの映画です」
でいいのです。
それは、他人が決めることではありません。
何に価値があるのかということは、自分で決めるべきことであるはずです。

と、結論づけて終わりたいところなのですが、現実に賞というものは沢山あります。

そうであるからには、それがある理由まで考える必要があります。

それで、これはやはり、ヒトが社会的生物であるから起きることではないでしょうか。

ヒトは集団で生きていくように出来ています。
そうであるからには、皆の価値観を統一したり、一体感を持つ必要があります。

そのための方法は色々ありますが、すぐれたものを選んで、それに賞を与えるというのも、その一つなのでしょう。

僕だって、色々いっても、一応の権威らしきものから、今年の一番はこれ、と決められれば、安心するというか、落ち着きます。

ですから、(その資格があったのに、選に洩れた人たちには気の毒ですが)これも人間社会には必要なことなのでしょう。

何はともあれ、選ばれた方々、これから選ばれる方々、おめでとうございます。