ペリー、ハリスと来たのにアメリカが幕末日本から忽然と消えた訳からつらつらと考えた事

日米和親条約1854年日米修好通商条約、1859年。
あれほど日本に門戸を開かせるのに熱心だったアメリカが、幕末の日本から忽然と姿を消すのは、1861年に始まる南北戦争を控えてそれどころではなくなったからでしょう。

変わって、イギリスとフランスが登場してくるわけですが、その一つのフランスの存在感が維新の後で無くなるのは、フランスが後押ししていた幕府側が薩長に負けたからだけではないでしょう。
戊辰戦争1868~1869。普仏戦争1870~1871。
これでプロイセンに惨敗したフランスは、やはり日本どころではなくなったのでしょう。(ついでですが、日本陸軍の仕様がフランス式からプロイセン式に変わったのも、ヨーロッパ最強といわれる陸軍が普仏戦争の結果、フランスからプロイセンに変わったからと聞きます)

わたしは昔、学校で歴史の勉強をするときに、歴史で大切なのは、その流れと因果関係を把握することであって、年号を覚えることなんて意味がない、と思っていました。
さらに言えば、年号などは知りたければ調べればいいだけだ、と。
だから、卒業して何十年も経ってから、年号を知っていれば当然気がついていたはずの、幕末の日本からアメリカが消えた理由に思い至ったりするのです。
年号を覚えていなかったので、歴史的流れを個別に考えてしまい、それぞれの関連性が全く思い浮かばなかったのです。

丸暗記などというのは、皆、いやなものです。やはり、テストで点数をとるためだけではなく、勉強するからには、する意味が知りたいですから。

丸暗記の代表は素読でしょう。

素読とは、論語などの漢文を、意味の説明も何にも無しに、ひたすらくり返し音読することです》

年号などの暗記ものは、その必要さを説明することもできますが、素読のそれを、相手が納得する形で説明するのはなかなかに大変そうです。

今は素読などというものは、生徒だけではなく、保護者も反対するだろうし、学校でやるのは到底無理なことでしょう。
確かに普通に考えたら無意味にも見えます。
しかしこれは、古人が経験からその有効さを知っていた教育法だったのでしょう。体に叩き込むということなのだと思います。わけもわからず、意味も説明されなくても、くり返して読めばなんとなく意味はわかってくるものです。

《但しこれは、読む文章がちゃんとしたものであることが前提です。リズムのない文章では苦痛なだけです》

しかし素読がもう流行らないのも仕方がないことです。素読の短所は現代では受け入れられ難いものなので。

先程、日本でいう、幕末から明治にかけての欧米の出来事に少し触れましたが、あらためて考えると、正に激動の時代です。争いに満ち溢れています。
しかもこれは、第二次世界大戦、さらには朝鮮戦争まで、ほとんど切れ目なく続くのですから。
その後、大きな戦争が起きていないのは何故か。
決して、人類の叡知のためなどではありません。

冷戦の間はよく言われていたことです。核戦争に発展するのが怖いからです。

ですから、広島、長崎の被曝は勿論、あってはならない、許してはいけないことでしたが、その尊い犠牲は、決して無駄なものではなかったのです。

原爆の投下がなく日本が敗戦していれば、おそらく朝鮮戦争で原爆は使われたでしょうし、そうなれば、使われる規模は遥かに大きかったはずです。
日本には、とどめとして使われ、しかももともと二発しか作られてなかったと聞きますが、朝鮮戦争で使われたならば、それは主力兵器としてでしょうから。(しかし原爆を見せられたあとで、よくソビエト金日成は戦争を仕掛けましたねぇ。それが使われないことに確信があったのでしょうか)

その後も核兵器が抑止力であり続けており、大戦争が起こっていないのも、広島と長崎の犠牲があったからこそなのです。