西洋文明の真髄は厳格な契約にあるのか

きっかけは、最近聞いた、ある有名政治家の演説でした。
発言の内容がうろ覚えなので、名前を出すのは控えますが、日本はこれからは、過度な競争はやめて、共生する社会を目指すべきだ、といった内容でした。

その主張に反対するものではないのですが、民主主義とは、人間が私利私欲を追求して自由に競争することにその本質があるという話をどこかで読んだことがあり、それとは相容れない主張ではあるな、と思いました。

《以下のことは、確かな裏付けがあっていっていることではありません。話四分の一くらいのつもりで聞いておいて下さい》


個々が自分の利益を追求することを否定しても、それは人間の本性に合わないことなので上手くいきません。
それぞれの人間は自分のことしか考えていなくてもそれが合わされば全体の利益になるという、そういう仕組みを作らなければいけません。(日常生活は別ですよ。日常生活では、譲り合い、助け合わなくてはいけません。勿論)

民主主義がうまく機能したときには正にそれができていることになるのですが、その秘訣は厳格なルール、特に契約を厳守することです。

何故西洋社会でそれができたのかというと、西洋の基本はキリスト教にあり、その根本理念は神との契約で、しかも、一神教絶対神です。

なんたって、絶対神との決め事なのですから、いい加減なことはできません。一度決めたら、つまりは契約をしたならば、それは、必ず守られなくてはいけません。そうしてその、契約を厳守する、という現代の私たちから見れば当たり前とも思えることが後々、民主主義が発展するうえで大きな助けになりました。

契約そのものは日本にだってあったでしょうが、それは時には権力者によって反古にされる程度のものだったのでしょう。

江戸時代に、いわいる大名貸し、つまり、豪商といわれるような商家が殿様に貸したお金、がたびたび踏み倒されたということ、しかも、それを泣き寝入りするしかなかったということはよく知られています。

当時の契約は天皇や将軍のような、日本のトップではなく、一地方のトップに過ぎない藩主にそれをやられる程度の拘束力しかなかったわけです。




文明の発展の基は経済力にあるとすれば、それは契約がいかに守られるかによります。

西洋以外では、一神教、つまりは、絶対の概念がないので、契約は絶対だという考えがなかったとすれば、どちらが商売、ひいては経済の発展に有利なのかは明らかです。

アラブ世界が一神教である、イスラム教をつくりあげたのも、その文脈でみるとよくわかります。

当時のアラブとは、ざっくり言うと(怒られるかもしれませんが)ラクダ商人の世界で、つまりは貿易商ということでしょう。

貿易ですから、広い地域がその商圏になるわけで、法が整備されていることと、とりわけ、契約が厳守されることは死活の問題だったはずです。

そのなかで、(当時対立していた)キリスト教世界ではそれが確立しているのをみたのですから、取り入れたくなるのは自然なことです。

しかし、取り入れたくはあるのですが、単純にキリスト教に帰依するわけにもいきません。そんなことをしたら、彼らの支配下に入ってしまいかねませんから。

それで、新しい一神教を発明して、ついでに自分たち用に改良したのでしょう。

その改良がいかに上手くいったのかは、イスラムがその後の世界の盟主(軍事だけではなく)となったことからもよくわかります。


私利私欲を追求することは人間の本性であるからにはがその後の世界の盟主(軍事だけではなく)となったことからもよくわかります。

しかし、仮に起源がそうであったからといっても、冒頭に紹介した、「共生社会」が必ずしも民主主義と相容れないわけではないでしょう。

そもそも、民主主義といったって、日本と西洋ではその実態は別ものだと思われます。

ここは、それを押し進めて、日本流の民主主義、資本主義をうまいこと確立するのも手立てだとは思います。

上手くいけば、もう一度、トップクラスに返り咲けるかもしれません。

下手をすれば、米中のどちらかに呑み込まれかねませんが。

《文中で資本主義と民主主義とをあまり区別していません。資本主義とは、お金が目まぐるしく行き交う社会なので、お金持ちも入れ替ります。そうなれば、身分制が壊れざるのを得ないのが一つ。また、物とお金が自由に行き交うためには、高貴な人と下賎な人が直接会ったり話したりすることができなければ大変不便です。この意味からも身分制はなくならざるを得ないので、つまりは、資本主義と民主主義は必然的に結びつくものです》