何かを批判したい時にお金が絡むことだったらもう一度深く考えたほうがいい

中曽根元総理に対する、実質的な国葬が行われることが批判されているらしいです。

国葬が行われることの是非はともかく、これを批判する人たちの動機はわかります。

人間は、儲け話を断ることや、儲け損なったことに対しては冷静に対処することができます。

しかし、損をしそうな話や、実際に損をしてしまったことに対してはそうはいきません。
大変に興奮して、感情的になってしまいます。
既得権を守ろうとする本能的な反応なのでしょう。

中曽根元総理国葬に対する反応は、正にこれに当てはまります。
国葬ということは、税金が使われる。税金、つまりは自分たちのお金が使われる、ということに過剰に反応してしまうのです。

ですから、彼らの発言の根拠を聞いても、あまり意味はありません。
客観的に妥当性を考えて出した答えではないからです。
初めから反対する、という揺るぎない結論があった上で、その理論的根拠を探しただけだからです。
後付けだということですね。

というわけで、“何かを批判したい時にお金が絡むことだったらもう一度深く考えたほうがいい”です。

上で述べた感情の罠から逃れる方法があります。
それは、なるべく客観的になることです。
今回のようなことでしたら、これを外国のお話だと仮定して考えてみる、というのも有効な方法です。

例えばそうですね、自分がアメリカ人だとして、ロナルド=レーガンが亡くなられた時に、(実際はどうだったのかは知りませんが)アメリカの国費が葬儀に使われたとしても、それは批判されるべきものだとは思わないのではありませんか。

別に、国葬を推進する人たちの意見も聞いて、双方の言い分を吟味した上で判断する、というのも、勿論、本来は有効な手段です。
しかし、マスコミというものは、私たちの聞きたいことしか報道しません。
今の例での私たちの聞きたいことは、国葬に反対する意見ですので、国葬を推進する人たちの、もしかしたら聞いたらもっともだと思うような意見は報道してくれません。

保守系の新聞、雑誌にはあるかもしれませんが、それも冷静さに欠ける文章になってしまっているような気がします。あまり読む気がするようなものではなさそうです。(偏見です)

この事に限らず、私たちは自分を騙すのです。まず、自分が思いたい結論を決めてから、根拠を探すのです。その根拠を見つけてから、あたかも、先に根拠があって、そこから結論を導きだしたかのように思うのです。