「レジ圧」とは、なんとも恥ずかしい言葉です

よく、「欧米では、云々、それに比べて日本人は、かんぬん。」という言い方で日本の悪口をいわれる人がおられます。
まあ、率直に言わせて頂いて、そういう言説は大嫌いでありまして、なぜかというと、まずは、欧米人の権威(そもそもそれが権威になっていることが問題なのですが。欧米の代わりに、中国ではこうなのに、または、ブラジル、エチオピアではこうなのに、という人はほとんどいません)をかさに、自分が一段、高みにいるかのような物の言いかた、また、欧米人にも良いところと悪いところがあり、また、それは日本人も同じだ、という洞察が欠けていること、さらに、彼らは、どこそこの国ではこうなのに、日本人ときたら、という言い方をするのですが、日本と同じことをしている国、または、さらに程度の低い国のことは言いません。全体から見たらどうか、ということは言わないのです。これはよくある文章の技ですが、あまり程度のいいものではないでしょう。

と、くさした所で彼らと同じことをやります。

昔、二十数年前の事ですが、北米を車で旅をしていたときに、道路工事で片側車線が通行止めになっていることがありました。こういうときに向こうの人たちは、交通整理をしている人と、列の先頭で待っている車にいる人が笑いながら話を始めるのですね。

他にも、スーパーマーケットで買い物をしているときでも、レジ打ちの女性とお客さんが商品を通している間に軽い会話をするのもよく見かけました。

とにかく、緊張が生まれるところではそうならないように会話をする、という文化が根付いているように感じました。
(欧米以外でも、例えばアフリカ諸国や南米の国々でも、同じことが起こるような気もします、なんとなくですが。また、日本人も江戸時代まではそう出来ていたのでは、とも思います。なんとなくですが)

日本ではどうでしょうか。日本の行列で、知り合いではない人たちが言葉を交わすことはほとんどありません。

皆、大概はムッツリと不機嫌そうに押し黙っています。

これを、歴史的、文化的なところから考えると、北米や、多分ヨーロッパでは、緊張から深刻な争いに繋がる、という恐れが多いにあったので、それを避けるテクニックが発達したのではないでしょうか。

日本人はそこまでは追いつめられた経験が少ないのでしょう。そこまでする必要があまりなかったのでしょう。

それは幸せなことであったのでしょう。しかし、欧米人と競争しなければならない時代にあっては、それよりも、私たちの日常生活を少しでも、楽しく、豊かにするためにも、彼ら、欧米人(その他)の技を見習う必要があります。

考えてみると、面白い現象ではあります。日本でむやみに他人に話かけると、状況にも勿論、よりますが、大体は露骨に警戒されます。

本当は、日本人よりもずっと、ずっと警戒心が強い欧米人は、そういう時には、とりあえずは受け入れた振りをします。

その後に起こるかもしれない展開を考えれば、両者の違いはさらに明らかになるのですが、日本人は初めの警戒のあとに、もしも打ち解けたならば、まったく、警戒心をといてしまうきらいがあります。

対して、欧米人は、おそらく、初めに、さも打ち解けているかのように振る舞っている時から相当に長い間、警戒心を持ち続けているように感じます。(だから、それが完全になくなったときの彼らの信頼はとても深いものになるのでしょう)

レジ袋が有料になってからの混乱具合を聞いて、上に書いたことを改めて感じました。会計が終わってから、商品を袋づめにする間、後ろに並んでいる人たちを待たせるのがプレッシャーだとか、逆にそれがいらいらする、などということらしいです。

いや、わたしも日本人なので、そうなっちゃうのはわかるのですが、でも、ねぇ、どうだっていいことですよね。少しばかり待たされるくらい。大体、私たちはそんなに時間を有効に、大切につかっているわけではありませんし。早くもそれに「レジ圧」という名前までついたそうです。言葉のセンスは大したものですが、間の抜けた、情けないお話です。

根本的なことを申しますと、そんなしょうもないことでイライラしないで下さい、ということになるのですが。いや、ぼくだって、絶対にそのレジで使うカードを、待っているあいだに用意していない人がいたら腹はたちますけどね。(待っているときのイライラが強い人ほど、自分の番になってから余計な時間を使うような気がします)

ちょっとした会話が大切なんだと思います。今はコロナ禍で無理ですが、待っている前後の人たちで軽い話をしたり。(後ろの人のかごの中を見て、「今日はカレーですか」「残念、肉じゃがです」とか)レジの人が焦っていたら落ち着くように声をかけてあげたり。レジ前でもたもたして焦るようなら、後ろに待たせている人にひと声かけたっていいのです。

ただ、それが出来るためには、他人から多少、何かを言われても気にしない強さが要ります、確かに。

それを持つためには、自信がなければいけません。

最近よく聞く、同調圧力ってやつをはね除けるだけの強さがいるのです。

こんな簡単なことをするのに特別な力がいる、ということが、日本人の同調圧力の強さをあらわしているのでしょう。

ここから反対のことをいいます。

この、日本人の同調圧力は、実は、日本の要かもしれないということです。

私たちは物事をみるときに、全体をみることは出来ません。今、自分が注目していることと関連した部分しか見えないのです。

上の例でいうと、弊害に見える同調圧力も、日本のまとまり、一丸となって事に当たれる根本的な理由、という見方もできます。

しかし、世の流れはそれを否定する方向にいっているようです。

自らの持つ強力な武器を捨て去るからには、それに代わるものが必要なのですが、私たちはそれを手に入れることが出来るのでしょうか。(厳しいでしょうね。そもそも同調圧力だって、環境に対応するなかでやっと獲得できたものでしょう。いいものだったはずです、少なくとも、その時には。それに代えられるものが簡単に
得られるとは思いにくいです)