科学の発展の経緯

近代科学はルネサンス以降のヨーロッパで発見、発展してきたのでしょうが、近代科学的合理性が広く知られる前の人たち、古代ギリシャ、ローマ人、中世のヨーロッパやイスラム圏の人々はその合理性に気付くことが出来なかったのでしょうか。そうだとする話は簡単ですが。また、ひとたび科学的方法論が見つかると、それは直ぐに世の中に広まった、と私たちは考えがちですが、それは正しいのでしょうか。

普通に考えて、古代から、農業や牧畜にたずさわっていた人たちは、今私たちが科学的方法だと思っていることをやっていたはずです。
経験の中からそれまでより優れたやり方を発見する。実際にその発見を実行することによって、正しさを確かめる。もしも効果があれば次回もそれを取り入れる。
これは人類がはるか昔からやってきたことで、それは科学的アプローチ以外の何者でもありません。ただ、近代科学と違うことは、何故それが有効なのか、というその原因を探ることをしなかっただけです。(特にそうする必要がなかったので)


そういう経験則とは全くべつの筋道から近代科学は生れたわけですが、どんなに優れたことであろうと、どんなに正しいことであろうと、世の中がそれを認めなければ無かったことになってしまいます。また、世の中がそれを必要としなければ、広まることはありません。(経験則による改善、改良はまさに、それが役に立ち、利益につながり、必要とはされたからこそ、認められ、受け入れられたのでしょう)

近代科学が成立し、また、広まったのは、世界がそれを必要とし、また、技術の発展により、その成果を使えこなせるようになったからだ、と考えられます。

世界がそれを必要とする、ということは、ざっくりといって、そこから利益を取れる、ということです。兵器に応用できたことも大きかったのでしょう。
特に資本主義の成立、発展以降は商品の大量生産や技術改革に科学は欠かせないものなので、その地位は揺るぎないものとなりました。

さて、この文章では、科学に対して距離をとった、突き放した書き方をしています。
これは、本当は、科学に対してそうしているわけではなく、あたかも科学を絶対真理であるかのように扱っている私たちの態度がおかしいと感じられるからです。

科学をそれほど信頼するならば、自然科学以外の人文科学の分野にもその方法論をあてはめるべきだったはずです。
勿論、人間社会を実験の対象にすることは、道義的にも、実際上もできないので、自然科学のように、厳密なことはできませんが、例えば経済学のようにデータを重視すれば、それに近づけることはできるはずです。

早い話が今わたしの書いているこの文章です。この文章は検証もしていなければ、根拠を示すことさえしていない、とても科学的方法とはいえないやり方で書かれているものです。
世の中には、この手の文章が横行しているのではないでしょうか。

さすがに学術論文の類いであれば、参考文献なり、引用元などがひかれますが、もともと曖昧な、根拠の少ない文献を引用しても証明にはならないのは当然のことです。

ようやく、といっていいでしょう。最近になって、数字での根拠、いわいるエビデンス(証拠)を示す、示さなければいけないということが、人文科学でも浸透してきたようです。

ただ、こういう個人の妄想に近い文章も存在していいと思います。自由な発想とそれを自由に発表することができなくなってしまったら、社会の発展にも悪い影響が出てきてしまう筈ですから。

ですから、これは受けとる側の問題でもあります。それが面白いかどうかだけではなく、正しさらしさも判断できなければなりません。