何かを批評する言説の陥りがちな事とその理由の仮説

具体例があると、わかりやすいと思いますので、安部政権に対する評価で考えてみます。特に安部さんに他意はありませんので、あしからず。総理大臣をこんなことに利用してごめんなさい。

安部さんに対しては、当然、評価する人と批判する人がいます。

このうち、直接の利害関係がある人はこの話には関係ありません。
自民党の人が安部政権を褒め称える。野党はその欠点を突く。いずれも当然のことです。

自らの属している組織がなにかの都合で、政権を支持もしくは批判する、と決めている時に、その決まり事に従うのも今回の話とは関係ありません。

そうではなく、自分の論評を何のしがらみのない、純粋な批評だと考えている人たちが対象の話です。

ほとんどの人たちが、自らの文章を自分の論調に合う事のみをつかって話を進めていきます。

安部政権に対してならば、これを評価する人は、長期政権によって、日本社会を安定させたこと。失業率を下げ、また、株価を上げたことなどをいうでしょう。

対して、これを批判する人は、格差を拡大させたこと、長期政権の割には、経済以外に仕事といえる仕事をしていない(経済分野で行ったことをどう見るのかはまた別です)、外交では、アメリカとはうまく付き合っているように見える反面、韓国、中国、ロシアとはうまくいっていない。 ことなどをつくでしょう。

ところで、これはわたしが思いつきで挙げたものにすぎませんが、しかしそれでも、評価する側と批判する側は、経済分野を除いて、いっていることがぶつかっているわけではない事に気がつかれるでしょう。

つまり、評価する側が挙げていることを、批判する側は直接反対しているわけではありません。ただ、それに触れていないだけです。これは、逆もまた同じです。

これは、実際にそれが見えていないのか、それともわかっていて、わざと触れていないのか。

一つだけを取り上げる場合はいいのですよ。新型コロナへの対応がどうとか。
ただ、そこから、全体への評価につなげるならば、自分の論調には合わないことも取上げなければきちんとした批評とはいえないのではないのか、と思うわけです。

では何故そういう文章が極めて少ないのかを考えますに、読み手、つまり私たちがそういう文章を望んでいないからだろう、と思うのです。

パンチがないですから、そういう文章は。「結局、お前はなにが言いたいのだ」または「お前は、どっちの味方なんだ」などといわれてしまうのでしょう。

読者に届くまでに、例えば雑誌などに載るものであれば、編集の人から駄目を出されてしまいそうです。「こういう中途半端な文章は受けが悪いんですよ。腹ぁくくって、攻撃するなら攻撃する。褒めるなら褒めるってしてしれないと」

しかし、そういった文章をよく見る分野があります。
それは、歴史を綴ったものです。

歴史上の人物を語るときには、その功罪を客観的に批評している文章が普通です。

同時代の人、物に対してでも、客観的に語るべきだと思いますが。