使命というものは、身近にある

どうも、人間は、年をとってくると、社会貢献ということを意識してくるようで、年配の方と話をすると、[世のため、人のため]ということをいわれることがままある 。
勿論、これは、素晴らしいことであると思うけれども、どうも、皆さん、どこかにいってボランティアをなさるとか、それを、[特別なものである]と思われているようだ。
これは、そうではなくて、もっと日常にあるものだと思う。
(勿論、ボランティアも重要なものであるのは当然として)
例えば、駅の階段の下で、エスカレーターも無く
乳母車を引いたお母さんが苦労していたら、一緒に上げてあげるとか。親切といってもいいし、気遣いといってもいいけれども、それは、我々にかされた[使命]である、といってもいいと思います。(決して大袈裟ではなく)
でも、なんで、知らぬ人のためにそんな事をしろというのかというと、自分も気持ちよくなれるからです。
人の役に立てて、自分も幸せになれる。[情けは、人のためならず]=[人に親切にするのは、人のためではなく、自分のため]
人間というものは、上手いことつくられているものです。
そう、我々は、自分の利益になることでなければ
やらないのです。
そして、多分、それでいいのです。
ただ、親切、気遣いといっても、そう、簡単なことではありません。
親切を受け入れる用意がある人に気付くことのできる視野を持たなければいけないし、こちらの助けを受けてくれる状態でいるのか、相手の身になって
考えられる洞察がなければいけません。
(善意のつもりのものを拒絶されるのは、結構、つらい)
ただ、残念ながら、そういった洞察は、苦労をした経験がなければ、身につかないのかもしれません。
人の痛みというものは、同じ経験をしたものでなければ、わからないのかも知れません。
我々には、想像力などといったものはないのです。