8月15日に際して

第二次世界大戦、太平洋戦争、十五年戦争。表記は何でもいいのですが、日本が敗戦を被った日が近づいてくると、戦争を振り返り、反省する言説、テレビ番組などが多くでてきます。

それらはおそらくほとんど全部、二つの種類に分けられます。
戦争の悲惨さ、無意味さを訴えて、二度と、戦争をしてはいけない、ということを主題におくものと、日本が無謀な戦争に突入して、なおかつ、指導部の余りな無能さの故に、戦力の差だけでは到底説明のできないほどの惨敗をしてしまった原因を探るものです。

その二つともに、必要なことであり、意義の深いものであることはそうなのですが、特に後者において欠けている視点があります。

それは、それらの事情は、どの国にも少なからずあることであって、日本が特別なわけではない、という視点です。
失敗の原因を探ることは重要、大切な仕事であることが前提であることは勿論ですが、今、日本でそれをやっている人たちがいっていることは、第一級の指導者にのみできうることを当時の指導層に要求しているように見受けられます。
そのような都合のいいことが常にあるはずもありません。(官僚制度というものは指導者の質が劣るときにも一定の仕事ができうるように作りだされたことだとは思いますが)
どの国にもいい時もあり、悪い時もあります。場合によっては滅んでしまうこともあります。

ひとり日本にのみそれを許さない、とでもいいたげな考えは、彼らは断固として否定するでしょうが、日本は特別な国である。神の国である、という考えと根は同じことではないでしょうか。

同じ心根からくる主張は他にも見受けられます。バブル期以降の失われた何十年、といういい方。特にリベラルといわれる人たちに多い、政治のやることをすべて否定する言説。皆、日本は特別で、他国から崇められる国でなければいけない、それなのに、といっているかのようです。(自分を、さらには自国を特別なものと見なしたいのは人間の本能でもあるのでしょうが)


(本当は、これは、世界の盛衰を熟知しているはずの歴史家がいわなければならないことなのですが)