亡くなられた人に対しては、私たちは追悼の意を表さなければいけないのですが。

特に不慮の死を向かえた方に対して、それが高名な方であればメディアも、そうでなくても近しい人たちは、追悼をして、哀悼の意を表します。

特にメディアでのそれは、上っ面で、仕事として言っているようなものもあります。
亡くなられた方を本当に惜しんでいる人には、それは腹立たしいものにうつるのかもしれません。

しかし、それは必要なことなのです。

私たち人間は、人間関係の複雑な網の目の中で生きています。
誰かがなくなるということは、そこに穴があいてしまうということです。
この穴は何かで塞がないと、私たちは不安定な状態でいることになり、私たちはそれに耐えることは出来ません。
特に、その亡くなりかたが突然で、しかも自死であるような場合には、その欠落は深刻なものになります。

その欠落を埋めるために、遺された人々は集まり、死者を悼むのです。
そうして、新たな関係を築いて、欠落を埋めるのです。

亡くなった方が名の通った方であった場合、メディアでの追悼は、その代わりとなるものです。
だからこそ私たちも、何が言われるのかはわかっていても、それを視るのです。

以上、語ったことのほとんどは、伊丹十三さんの映画「お葬式」の解説で、岸田秀さんが書かれていたことです。
その視点を持って、「お葬式」を見直せば、また新たな発見があるのではないのでしょうか。