それぞれがいかにして死者を悼むか

人間は人間との関係性の中で生きている生き物です。
その関係性の重要さは、それを無くしてしまったら、精神的だけでなく、肉体的にも生きつづけることが出来ないのかもしれない程です。

ですから、その関係性のなかにいる人を失っていまったときには、喪失を感じるわけです。
よく、そういう時に、自分の一部を失ったようだ、と表現することがありますが、それは、“失なったようだ”ではなく、本当に失っているのだと思います。

失ってしまったものは、失われたままなのかもしれませんが、それでも私たちは生き続けなければいけません。
そのためには、関係性の失われた部分を繕わなくてはいけません。

そうして、そのやり方は失なった人との関わりかたの深さでも違いますし、人それぞれでもあります。
(例えば、織田信長は、父を失なった時に、灰を位牌に投げつける、という行為で死者を悼みました)

ですから、死者を悼む儀式にも階層があって、お焼香だけする人もいるし、お通夜まで残る人もいるのです。

周辺には、久闊を辞して談笑する人たちもいるし、中心では、事務的なこと以外は何も言えない人たちがいます。

そういう、それぞれの行いは、失われた部分を繕い、残った者たちで新しい関係性を築くのに必要なことなのです。

亡くなられ方が著名な場合には、テレビなどのマスメディアで、それが取り上げられることになります。
マスメディアの仕事ですから、“名前は知っている”だけの人たちや、“その人が好きかどうかを聞かれれば好きという”といった人たちに向けたものにならざるを得ません。

何らかの意味で深い思いのある人たちが、そういう報道を見聞きして不快な思いになるのは当然のことです。自分にとっては他人事ではないことを、他人事として報道されるわけですから。出演者は仕事としてやっていますし、事実誤認もあることでしょう。
もしも、葬儀場で、亡くなられた方のご家族が、周辺で談笑している人たちの会話を聞いたら、怒りを覚えるだろうことと同じです。

しかし、これらは、それぞれの人たちにとって、必要で重要なことなのです。
ただ、マスメディアのなかでのことなので、それを見聞きしてしまったら、傷ついたり、腹を立てたりするだろう人たちにも、それが届いてしまうかもしれないことは気の毒なことですが。