菅政権の携帯電話料金への介入は原則としてはやってはいけないことなのですが

本来、政府が個別企業の商品の値段に口出しするのは、不自然で、強権的で、自由主義経済の原則に反していて、結果として健全な経済活動が歪められる恐れがあり、余程のことが無ければやっていけないことです。

言うまでもなく、携帯電話の料金がいくら割高であろうと、“余程のこと”ではありません。

もしも、政府が携帯電話の料金が割高だというのなら、やるべきことは、三社による寡占が打破される、新規参入されやすい環境を整えることです。それが政治の仕事というものです。

それを逸脱して、直接、企業に値下げを要請するなどということは、自由主義経済に真っ向から反対するもので、政策として、はっきり間違っている、というのが一般的な見解になると思います。

しかししかし、これはあくまでもアングロ=サクソン的価値観、つまり、イギリスとアメリカにおいて主流の価値観に過ぎない、という見方も出来ます。

この辺の事について、わたくしは門外漢であるので、間違っていることもいってしまうかもいれませんが、米英を除く主要国で、アングロ=サクソン的価値観から見て、その経済政策が合格といえる国というのは、ほとんどないのではないのでしょうか。

中国、ロシアは勿論のこと、フランスも、なんたって元祖革命の国ですから、自由より平等を重要視する、共産主義的な思想が強い国であって、すなわち、中央集権の傾向が強い、規制の多い国です。
ドイツも、やはり官僚の力が強いイメージがあります。

そもそも米英モデルが重視されているのは、結果がでているからであって、本当はそれ以外の理由はありません。
学者は根拠をさまざまに並べるでしょう。それも間違ってはいないのでしょうが、全て、米英モデルが正しい、という結論を見据えての学説です。

ですから、(可能性は低いと思いますが)中国が覇権をとったとしたら、その政治がいかに優れているのかを改めて並びたてるでしょう。
仮定の話ではなくても、第二次大戦前に、ヒトラー率いるナチスドイツが経済回復を成し遂げたときには、皆々褒め称えたことと思います

現在のところ、米英モデルが優位にはあるのは確かだと思います。しかしそうだとしても、それを真似れば結果がでるのかというと、必ずしもそうではないのが難しいところです。

米英モデルは、米英以外の国には気質的に向いていないのかもしれないからです。

そうして、人間、向いていないことをしても、大抵いい結果は出ないものです。
(だからといって、米英モデルを捨て去れ、と言いきるだけの根性はありませんが。悩ましいところです)

それぞれがいかにして死者を悼むか

人間は人間との関係性の中で生きている生き物です。
その関係性の重要さは、それを無くしてしまったら、精神的だけでなく、肉体的にも生きつづけることが出来ないのかもしれない程です。

ですから、その関係性のなかにいる人を失っていまったときには、喪失を感じるわけです。
よく、そういう時に、自分の一部を失ったようだ、と表現することがありますが、それは、“失なったようだ”ではなく、本当に失っているのだと思います。

失ってしまったものは、失われたままなのかもしれませんが、それでも私たちは生き続けなければいけません。
そのためには、関係性の失われた部分を繕わなくてはいけません。

そうして、そのやり方は失なった人との関わりかたの深さでも違いますし、人それぞれでもあります。
(例えば、織田信長は、父を失なった時に、灰を位牌に投げつける、という行為で死者を悼みました)

ですから、死者を悼む儀式にも階層があって、お焼香だけする人もいるし、お通夜まで残る人もいるのです。

周辺には、久闊を辞して談笑する人たちもいるし、中心では、事務的なこと以外は何も言えない人たちがいます。

そういう、それぞれの行いは、失われた部分を繕い、残った者たちで新しい関係性を築くのに必要なことなのです。

亡くなられ方が著名な場合には、テレビなどのマスメディアで、それが取り上げられることになります。
マスメディアの仕事ですから、“名前は知っている”だけの人たちや、“その人が好きかどうかを聞かれれば好きという”といった人たちに向けたものにならざるを得ません。

何らかの意味で深い思いのある人たちが、そういう報道を見聞きして不快な思いになるのは当然のことです。自分にとっては他人事ではないことを、他人事として報道されるわけですから。出演者は仕事としてやっていますし、事実誤認もあることでしょう。
もしも、葬儀場で、亡くなられた方のご家族が、周辺で談笑している人たちの会話を聞いたら、怒りを覚えるだろうことと同じです。

しかし、これらは、それぞれの人たちにとって、必要で重要なことなのです。
ただ、マスメディアのなかでのことなので、それを見聞きしてしまったら、傷ついたり、腹を立てたりするだろう人たちにも、それが届いてしまうかもしれないことは気の毒なことですが。

亡くなられた人に対しては、私たちは追悼の意を表さなければいけないのですが。

特に不慮の死を向かえた方に対して、それが高名な方であればメディアも、そうでなくても近しい人たちは、追悼をして、哀悼の意を表します。

特にメディアでのそれは、上っ面で、仕事として言っているようなものもあります。
亡くなられた方を本当に惜しんでいる人には、それは腹立たしいものにうつるのかもしれません。

しかし、それは必要なことなのです。

私たち人間は、人間関係の複雑な網の目の中で生きています。
誰かがなくなるということは、そこに穴があいてしまうということです。
この穴は何かで塞がないと、私たちは不安定な状態でいることになり、私たちはそれに耐えることは出来ません。
特に、その亡くなりかたが突然で、しかも自死であるような場合には、その欠落は深刻なものになります。

その欠落を埋めるために、遺された人々は集まり、死者を悼むのです。
そうして、新たな関係を築いて、欠落を埋めるのです。

亡くなった方が名の通った方であった場合、メディアでの追悼は、その代わりとなるものです。
だからこそ私たちも、何が言われるのかはわかっていても、それを視るのです。

以上、語ったことのほとんどは、伊丹十三さんの映画「お葬式」の解説で、岸田秀さんが書かれていたことです。
その視点を持って、「お葬式」を見直せば、また新たな発見があるのではないのでしょうか。

何でもかんでも政治の仕事なのか

政治の役割、責任は時代が下るにつれてどんどん大きくなっている。それでも現在では衣食住の確保がその限度であろう。
それ以上のことは荷が重い。

それ以外のことは、各種業界や団体、個人の要求のうちで、受け入れるべきことがあれば、それを補助するくらいがその役割だと思うが。

衣食住以外のことでも、政治が積極的に問題の解決に動くべきだという主張が見受けられるが、それを要求しても、いかにも官僚的なことを始めるだけだろう。

特に精神に関わることは、政治家や官僚が苦手とするところであろう。

現代人の精神が不安定なのは、簡単に言ってしまえば、我々が社会環境の変化に対応できないからでしょう。

ヒトもそうだし、生き物は環境に対応する能力を持っているが、対応にはいくらか時間がかかる。

現代のように、余りにも変化が急激な社会では、それに対応する暇がない。

じゃあ、どうすればいいのだ、ということだが、それがはっきりわかれば苦労はない。

もがきながら、皆で知恵を出し合いながら解決方法を模索していくしかないだろうし、実際にそうしているのだが、短絡的に政治の責任にするのは安易だということ。

政治に要求するのならば、具体的なアイデアをだして、それを実現させるために協力を要求するのでなければならないだろう。

《但し、今後、政治の役割は更に増えるのでしょう。しかし、政治の裁量が増えるということは、民間の力が弱くなるということにつながりかねない。政治の仕事の範囲の設定と、その方法は、今のようになし崩しではなく、しっかり決めるべきことだと思うが》

戦争協力者の評価について

これは、大袈裟ではなく日本の言論のタブーに触れる話題です。

また、初めにお断りしておかなければならないでしょうが、私は、右翼的な考えを持っているわけではありません。
そうではなく、これから述べることは、物事をきちんと、正面から、見れば、おのずから導きだされることであるはずです。
それにも係わらず、おそらく以下の言説には、ほとんどの人が嫌悪感を持つでしょう。途中で読むのやめられるかもしれません。
やめられてもかまいません。ただし、その時に感じた嫌悪感から目を背けないで、ご自分なりに、もう一度考えて頂きたいと思います。
偏見を持たずに、改めて考えれば、答えは出てくるはずなのです。

前置きが長くなってしまいました。
結論から申し上げます。戦時中に戦意高揚などで軍部に協力した作家や作曲家たちが戦後、現在に至るまで責められていますが、責められるいわれは、無いのです。

戦争指導者の話をしているわけではありません。
ここでは触れませんが、彼らをどう評価するべきかというのも、また考え直されなくてはならないことではあります。
少なくともその無能さは責められ続けなくてはならないでしょう。

日本では、終戦記念日というのは、仕様もない戦争を起こしてしまったのは間違いであった、という反省をする日になっています。
対して、戦勝国では勝ったことを喜ぶ、自分たちの優秀さを噛みしめる日であるのでしょう。

日本以外の国々、アメリカでもイギリスでも旧ソ連でも、民間人が戦意高揚に協力したことはあったでしょう。
戦後、その人たちは戦争に協力したことで人々から責められたでしょうか。具体的なことを知っているわけではありませんが、常識的に考えて、日本に比べて、それは少なかっただろうと思います。

その違いはどこからくるのかというと、勝ったか負けたかだけです。
勝ち負けの責任は、戦意高揚に協力した人たちにはありません。
普通、自分の国が戦っているのならば、それに協力しようと思うものではないでしょうか。(勿論、戦争そのものに反対していた人たちもいたでしょうし、それは立派なことだと思います)

また、日本は悪い戦争をしたからという方もおられるでしょう。
しかし、戦争なんて、幼児がオモチャを取り合ったり、ちょっとした感情の行き違いで喧嘩をするのと全く同じです。
立派なものでも無ければ、それほど罪深いものでもありません。
良い悪いというよりも、ただ私たちが阿呆なだけです。

そこに善悪を持ち込んで、悪い戦争に協力した人は責められるべきで、良い戦争に協力した人は誉められるべき、というのはやはり、間違っているといわざるを得ません。

二度と戦争は起こさない、という決意は勿論、立派であり、賛成です。
しかし、それとは切り離して、戦前戦中の出来事を、冷静に、客観的に分析し、評価するべきであろうと思います。

また、それが出来ない人たちが、また危機の時代が来たときに戦争を回避できるとは、わたしには思えません。

意に反して流出してしまったポルノ画像について

一般的には、たとえ夫婦や恋人の間柄であっても、流出して困るような画像を撮ることを許してはいけない、といわれることが多いようです。

それは、勿論正しいことです。しかし、現実にそういう画像を既に撮られてしまった人たちを助けることは出来ません。

おかしいことですよね。彼女たち(もしかしたら彼らも)は何も、全く悪いことはしていません。それにもかかわらず、現実に被害を受けているか、または被害を受けるかもしれないことに怯えなければいけないのです。

何かがおかしいのです。では何がおかしいのか。それは、そういう画像を観て、その当事者に何らかの屈辱を与える人たちです。つまりは、私たちです。

確かに、自分のセックス画像が流出してしまって、周りに観られたりしたら、それは恥ずかしいでしょう。でも、それは誰もいないと思って鼻くそをほじっていたら、それが盗撮されていた、とか、一人だと思って思いきりおならをしたら、それが音声つきで流出してしまった、などということと、おんなじレベルである筈です。そうでなければいけないのです。セックスだって、鼻をほじることだって、おならだって、みんなが(多分)やっていることで、なんにも悪いことではないのですから。

リベンジポルノなどということが、全くリベンジにもなんにもならない、ただ、本人の恥さらしにしかならない世の中になって欲しいものです。

《但し、そうなったらセックスの快感などというものも、ほとんど無くなってしまうのかもしれません》

はたして縦割り行政は改善されるのか

縦割り行政の弊害は、ずーーーーっと長い間指摘されています。
一般には、それだけ言われ続けていても、一向に改善されないのは、官僚の方々の保身であるとか、既得権益を守ろうとする力が強いからだ、と言われます。

確かに、既得権を含めて、自らを守ろうとすることは人間の本能のなので、その力が強いのはわかります。しかし、そうだとしてもこれだけ改善されないことには、他の理由もあるのかもしれません。

私たちは、現状を考えるとき、そこから得ている利益には気付き難いものです。そうして、弊害には敏感です。
縦割り行政の良いところ(無いわけはありません)そのことを分析した文章は見たことがありません。

(いや、わたしも、現状でいいといっているのではありませんが)

少なくとも、当事者である官僚の意見や分析は聞かなければならないはずですが、そういう文書が一般に公開されたという話は聞きません。(実は内々に行われているのかもしれませんが、そうだとしたらそれを積極的な公開しないというのは、公的な機関としては良くないことですし、一般大衆を信用しなければ、民主主義はいつまでも成長できません)

わたしとしても、こう言いながら菅内閣が目指している縦割り行政の打破、というのは是非成功して欲しいのですけれども、そう思う一方では、こんなことも考えてしまうのです。